ワークショップ日記⑩~2024年を振り返る。「死」はどこにあるのか~
- kazenooka
- 2024年12月29日
- 読了時間: 10分

ー今日が今年最後のワークショップとなります。唐突ですが、今年一年を、漢字一言で表してみてください。
Aさんからお願いします。
〈Aさん〉「信」ですかね。信頼の「信」。今年は職場でも、プライベートでも、少しは信頼を得ることができたかな、と感じています。それとクリスチャンとしての、信仰が問われた1年でもあった。なので、「信」です。
ーありがとうございます。Bさん、お願いします。
〈Bさん〉私は原点の「原」です。仕事だけじゃなくて、いろいろなことで原点に戻らなきゃと、そう思うことが多かった1年でした。
ーちなみにBさんの「原点」って、どこにあるんですか?
〈Bさん〉は? 最初からそういう難しいことは聞かないでください(笑)。
ーはい、わかりました(笑)。では、Cさん、お願いします。
〈Cさん〉私は「嘘」。今年は、もういたるところで嘘が多かった。自民党の裏金問題もそうだし。もう、うんざりです(笑)。
ー今日初めてご参加されたDさん、お願いします。
〈Dさん〉私は慌ただしいの「慌」。親族で亡くなった方がいたりして、とにかく落ち着かない1年でした。年齢的なこともあるのですが、人が亡くなることが年々増えてきました。それをすんなりと受け入れることができるようには、なかなかなれませんね。
ーありがとうございました。
さて、ここからが少しずつ本題になっていきます。
いま発表された漢字の、反対語はなんという語になりそうですか?
と言っても、決して辞書的な話をしているのではありませんよ。例えばCさんの「嘘」だと、辞書的に言えば「真」となるのかな。Aさんの「信」だと、「偽」。
でも「嘘」の反対は、本当に「真」でいいんだろか。「信」の反対も「偽」でいいのか。
そんなふうに考えをすすめていただいて、自分なりに納得のいく反対語を定めてみてください。
では、Aさんからお願いします。
〈Aさん〉私にとって「信」の反対は「失」ですね。「失う」の「失」。職場でもプライベートでも、信頼を失うということが、一番怖かった。これまでも、仕事の納期を過ぎてしまったり、約束をしていても体調が悪くなってそれができなくなることがあって、それで信頼を失うことが多かったから。それが今年は、最小限に抑えることができたかな、と思っている。
ーありがとうございます。ではBさん、お願いします。
〈Bさん〉はい、私は迷いの「迷」。今年はずっと迷っていたような気がします。例えば仕事でも、私の職場は夏が暑いのですが、今年は早々にバテてしまって…。これから大丈夫なんだろか、と。体調管理を含めて、いろいろと迷った1年でした。
ー佐野市の暑さは、災害級ですからね…。お気を付けください。では、Cさん。
〈Cさん〉「嘘」の反対は「真」にしようと思っていたら、先に言われてしまった…(笑)。でも、よくよくかんがえてみれば、「真」ではないなと。それで「嘘」の反対は、「義」。正義の「義」です。結局、嘘をつくということは、人を欺く、人を裏切る、ということなんですよね。でも嘘をつく人は、それがわかっていない。「義」を失っているんですよ。
〈Aさん〉裏金の国会議員なんて、まさにそうだよな。国民を裏切っている、なんてまるでかんがえていない。「義」のかけらもない。
ーDさん、お願いします。
〈Dさん〉私は、把握するの「把」です。慌ただしいと、何かをつかもうとしても、ポロポロとこぼれ落ちてしまって、手の平にはなにも残っていない。しっかりと把握する、何かをつかむ。来年はそんな一年にしたいです。
ーありがとうございます。いや~、面白いですね~。
いまみなさんには、まず今年一年を一言で表現し、その反対語を決めていただいた。
そこで、もう一段、深掘りしていただきます。
最初の一言から、次の反対語を決めていただくとき、おそらく自分なりに何らかの基準があったと思うんです。おそらくそのような基準は、ふだんは無意識的に使用しているため、言語化されることは、あまりないだろう。ここでは、ぜひそれを言語化して発表していただきたいと思います。
〈Dさん〉そんなこと、かんがえたこともなかった。私はいつも、そのまま話しているだけだから(笑)。
〈Bさん〉さっき、原点ってどこにあるのって聞かれて、どこにあるんだろう、となっていて。それで今度は、その基準は何かと言われて(笑)。年末なので、もう少し優しくしてください。
ーはい、はい、それはすみませんでした(笑)。それでは、Aさんからお願いします。
〈Aさん〉どうなんだろう…。やっぱり「人との関わり方」かな…。人と関わるということには、正しい道があるだろうという気がする。それは教育がもたらすものかもしれないし。人とどのように関わるか、それが私の場合は基準線になっていると思う。それも突き詰めていけば、聖書ということになるんだろうけど。
〈Cさん〉信仰のある方って、いつも聖書が念頭にあるのですか?
〈Aさん〉私の場合は、いつもというわけではありませんね。辛いときや苦しいとき。どうすればいいのかわからなくなったときに、聖書に導きを求めます。
ーBさん、大丈夫ですか?
〈Bさん〉大丈夫じゃないですけど…。私は、“このままじゃダメだ”という感覚かなぁ。いまのままだと、本当に自分はダメになってしまうという、そういう危機感みたいなものがつねにありますね。
ーこのままじゃだめだという危機感が、言葉を選別させている?
〈Bさん〉振り返ってみると、そんな気がしますね。
ーはい。Cさんお願いします。
〈Cさん〉基準線か…。私の場合は「自信のなさ」ですね。嘘をつく人からは、嘘をつかないと生きていけないような、そういう、人間としての根本的なところの「自信のなさ」を感じるんです。
「義」というのは、そういう意味では、自分の人生を自分なりの責任において生きるという、そういう覚悟を求められるというか。
〈Dさん〉そこ、とても大切なところだと思います。すごく大切なことを、おっしゃっている。
〈Cさん〉ありがとうございます。いまの私がそうできているかと言えば、まだまだという感じがしますが、それでもやはり「義」を求める生き方をしていきたいと思います。
ーまさに2024年を振り返るにふさわしいやりとりになってきました。今年は裏金問題から始まり、世界中の戦火が激しくなる。本当に壮絶な一年でしたから。
Dさん、お願いします。
〈Dさん〉私は、「生き方」。最初は「自分をみつめる」にしようと思ったのですが、自分をみつめるその基準はなにかと言えば、それは「生き方」そのものだろうと。
ー「生き方」。シンプルだけど、まっすぐに入ってくる言葉ですね。
〈Dさん〉ええ。いつもそれをしっかりと持って、生きていきたいと思っています。
ー今年のワークショップは前半が仏教の四句分別、後半がハイデガーの存在論をモチーフにして、いろいろと試してきました。
では、ここで、最後にやはりハイデガーの『存在と時間』。
『存在と時間』は、「死への先駆的決意性」なんて言い方もあることから、武士道でおなじみの『葉隠』的な思考、「武士道と云ふは 死ぬ事と見つけたり」みたいな感じで受け取っている解説本がけっこうあるんです。先にある自分の死をみつめて生きよ、といったような。
しかし、ハイデガーが『存在と時間』で言っている「死」というのは、どうもそういうような、未来にあるはずの「死」を先取りしていけという、そういうことではないような気がしているんです。
例えばですけど、もし僕たちが不老不死だったとしたら、今年の一言って、どうなっていたと思いますか?
〈Aさん〉不老不死ってことは、死なないし、そもそも老いないということですよね。極端
な話、何を食べても食べなくても、病気になってもならなくても、べつに変化がないということ?
ーそういうことになりますね。そういうなっているときに、今年の一言って、どうなっているんだろ?
〈Aさん〉そうなると、そもそも何か言ったり、話したりする必要があるのかな…。
職場から信頼を失って仕事をなくしたところで、別に死ぬわけではないし。どうして私たちにとって信頼が大切かといえば、信頼を失うと孤独になり、精神的にも経済的にも生きることが困難になっていくから。でも死なないのなら、極端な話、孤独でもかまわないわけだよね。
〈Cさん〉例えばだけど、どうして嘘がいけないかといえば、それは帰結的には「人としての生き方」に反するから。でもそれも、人間が有限な存在、いつか死ぬ存在だからこそ、その生き方が問われるんであって、ずっと生きているのなら、どれくらい嘘をついてもたいしたことではないということになる。
嘘をつけば、それだけ人が離れていき、孤独になる。でもそれでも死なないわけだから、まぁ、それでもいいんじゃないかと。嘘とは何か、なんて、語り合う必然性がなくなるというか。
〈Bさん〉私の場合、「このままじゃダメだ」って、永遠に言い続けているのか。
〈Aさん〉〈Cさん〉(笑)
〈Bさん〉ちょっと、あまりにもバカすぎるような気がする(笑)。
ー(笑)。Dさんはいかがですか?
〈Dさん〉そもそも生きるために慌ただしくしているわけですから、死なないとなれば慌ただしくする必要がなくなるわけだし。こういっては何ですけど、なにを把握してもしなくても、何を理解してもしなくても、もう同じことになりますよね。
〈Aさん〉だから、みんなが不老不死なったら、そもそも会話が成り立たないよ。極端な話、会話をしなくたって生きていけるんだから。
〈Cさん〉ということは、人間はそもそも死ぬからこそ、言葉を必要とし、人と語り合うことを求めている、ということになるのかな。
あ、なんか面白い話になってきた(笑)。
〈Bさん〉不老不死になったら、たぶん私は何もかんがえないようになっていると思う。一日中、ぽけーっとしているような気がする。
〈Dさん〉私も同じこと、思っていました。いまだってぼけ―っとしているなんて言われることがあるんだから、死なないとなったら、もう(笑)。
ー僕はハイデガーが「言葉は存在の住処」という言い方をよくしていることが、ずっと気になっているんです。
これまでのお話ですと、不老不死なら人と会話をする必要性もないし、もしかしたら言葉も使っていないかもしれない。
となると、もうすでに僕たちはこうして言葉を使って会話をしているという、その事実だけを取り出してみても、そこには「死」があるからだということになる。
それは未来に「死」がある、ということとは少し違っていて、そもそもつねに「死」と接している、もっと言えばいまここに存在している「死」を生きているからこそ、言葉を使うことができるのではなかいかと。
僕たちは習慣的な考え方だと、いまが「生」でその先に「死」がある、という図式で捉えがちだけど、この言葉を用いているいまここに、まさに「生」と「死」は臨在している。
〈Bさん〉え、でもまだ、私は死んでいませんよ。
ーでは、その死は、どの瞬間にBさんに存在するのかな?
〈Bさん〉心臓が止まった瞬間。
ーその瞬間にだけ、ぱっと「死」が顕れて、またすぐに消えてしまう?
〈Bさん〉死んだ人は、そのまま死んでいますよね。
ーそれは死体があるということで、「死」そのものがある、ということではないんじゃないかな。
〈Bさん〉もう、無理です(笑)。
〈Dさん〉いまのお話、とてもよくわかります。何人も身近に人を亡くしていると、人の死って、瞬間じゃないなと、自然に思えるから。
「死」を生きているからこそ、こうして言葉を使って人と語り合うことができる。
難しいことはわかりませんが、なにかこう、しっくりきます。
〈Aさん〉キリスト教の教えでも、確かに「神の国はあなたがたのただ中にある」といってますからね。そうですね、「死」は私たちの中にある。
〈Cさん〉以前、『存在と時間』を読んだときは、いったい何が書いてあるのか、まったくわからなかった。まだ後編を読んでいないので、この年末年始に読んでみます。
ーということで、お疲れさまでした。
今年のワークショップ・コトバ編はこれで終わりとなります。
最後までお付き合いいただき、心から感謝いたします。
では、よいお年をお迎えくださいませ。
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