ワークショップ日記⑦~『永遠』をめぐって。「永遠であるのは私ではない」~
- kazenooka
- 2024年9月20日
- 読了時間: 7分
更新日:1月20日

―今日は「永遠であるのは私である」の2回目。
【永遠であるのは私ではない】になります。
ただ前回「もの」と「こと」の話に、少しだけ補足させてください。もしかしたら、また新たな世界に気づくきっかけになるかもしれませんので。
突然ですが、宮崎駿監督の『もののけ姫』。みなさん、観ましたか?
(全員うなずく)
―なら、話がはやい。あらためてお聞きしますが、『もののけ姫』の最初の言葉である「もの」って、なんのことだと思いますか?
ジブリ大好きなBさん、いかがですか?
Bさん 「もののけ」の「もの」? 悪霊みたいなものかな。
―悪霊のことを「もの」?
Bさん わかりません(笑)
―同じくジブリが好きなCさんは、どうですか?
Cさん いや~、なにかな…。もの、もの…。情緒みたいなもんかな…。
―そうかんがえると、けっこう難しいでしょう。
「もの」がつく言葉と言えば、ほかにも「ものかなしい」とか、「ものものしい」とかありますよね。本居宣長で有名になった、「もののあはれ」なんてのもある。この「もの」ってなんだろう?
Aさん そのものとしてはないんだけど、あるようなもの? わからない(笑)。
―面白いでしょう。この「もの」って、それは何かと問うと途端にわからなくなるんだけど、でもそれは「ある」としかいいようなないものですよね。哲学的に言えば、「○○とは何か」と問う「本質論」的思考だと手におえないんだけど、その「ある」ということの意味を問う、「存在論」的思考だと一気に色合いが豊かになる。これはいったいどういうことか、ということです。じゃあ、この話はこの辺で(笑)。
Aさん ここで終わりなんですか? なんか足をさらわれたままのような(笑)。
―では今日の問いは【永遠であるのは私ではない】。なぜなら…、後に文を続けていただきます。先々週からの宿題みたいになっていましたので、発表できそうですか? ではAさんからお願いします。
Aさん 「永遠であるのは私ではない」。なぜなら、永遠は私の前を通り過ぎて去っていくから。
―永遠が私の前を通りすぎていく?
Aさん そう。不動の私がいて、その前を過ぎていく。
―あくまでも「私」はいるんですね。「私ではない」と言いつつも、「私」はいる
Aさん あ、そうですね。私はいますね。あれ、なんでだろう(笑)。
―ではBさん、お願いします。
Bさん 「永遠であるのは私ではない」。なぜなら、続いていくような、浮かんでいるような、時間の流れに漂っているから。
―すごく壮大な感じ。
Bさん Aさんとけっこう同じようなイメージだと思うんです。Aさんも、「過ぎていく」というときに、それは時間の流れ?、みたいなものじゃないんですか。
Aさん ああ、そうですね。でもそれだと、この前の話じゃないけど、永遠というのは時間がないということなのに、どうしても時間を前提してしまうということになるんだよなぁ。
Cさん それで言えば、そもそも時間を前提にしないで、私たちってものごとをイメージできるんだろうか? 永遠という言葉はあるけど、永遠を実際に経験することはできないんじゃないですかね。
―ここで一度、ヴィトゲンシュタインの思考に触れておくのもいいのかもしれない。特に、後期の思考と言われる「言語ゲーム」という考え方に。
数を数えるとき「1(イチ)、2(ニー)、3(サン)、4(シー)…」と数えますよね。
どうして「3、1、4、2…」と数えてはいけないんでしょう。
Bさん えー、そうなっちゃうとわけがわからなくなる(笑)。
Aさん 一個を「1(イチ)」と言わないと、数とモノの個数がバラバラになるからかな。
―それなら、一個を「サンコ」と呼んでもいいんじゃないの?
Aさん 言ってもいいんでしょうけど…。わからん(笑)。
―では同じように、文字を覚えるときにどうして「あいうえお」という順番覚えるんでしょうか? 「いおくたね」でもよくないですか?
Cさん いや、もう…。それで、なにが言いたいんですか(苦笑)。
―ヴィトゲンシュタイン的にかんがえれば、「イチ、ニー、サン、シー」と数を順番で数えるのは、人間は何事にも規則性を見出す/つくりだすからだ、ということになる。一見バラバラに見えることがらも、次第に列化させてしまう。数だけではなくて、言葉も同じ。「あ」「い」「う」「え」「お」だって、次第に「あいうえお」と列化されていく。なで、数も文字も規則性という人間の機能上の産物だとすれば、それ自体に意味があるわけじゃないなくて、恣意的につくられたものなんだということになる。
そうなると、僕たちがふつうに使っている「時間」も同じ。1時、2時だって、時間そのものがあるわけではなくて、数の規則性にただ「時」をつけただけ、という言い方もできる。
Aさん となると、「永遠」も数の規則性によってつくられた言葉/観念に過ぎない、ということ?
―「無限の時間」みたいな表象(イメージ)で「永遠」を捉えようとすると、そうなってしまう。
Aさん じゃあ、「永遠」なるものはない、と。
―そうだと話が簡単なんだけど、でも僕らが永遠という言葉を使うときは、「無限の時間」ということもあるんだろけど、ちょっとそれにはおさまりきらないような領域もあるような気がしませんか?
Cさん それ、わかります。私は最初から「無限の時間」的な永遠に、むしろ違和感があったくらいでしたから。
―いままで話したことは後期のヴィトゲンシュタインの考え方だったけど、永遠については、前期の考えをまとめた『論理哲学論考』という著作があって、そこから一貫しているように思えるんだよね。ヴィトゲンシュタインは「永遠を時間的な永続ではなくて(つまり「無限の時間」じゃなくて)」、「無時間性と解するならば(つまり列化した時間という枠組みを取っ払ってしまえば)」、「現在に生きるものは永遠を生きるのである」。
Cさん あ、なんかすごい。ドキンとしました。
―これもまた、様々な解釈ができる言い方です。ぼくはこんなふうに理解しています。意識は何でも規則性を見出し、列化してしまうけど、そういう規則性を離れた意識の状態、もっと言えば規則性以前の意識の状態、まさに「いまここ」を生きる、現在そのものを生きる意識においてこそ「永遠」はある。
Cさん すごい、すごい。それです、それです。
Bさん すみません。ぜんぜん、わかりません(笑)。
Aさん 私は、わかったような、わからないような…。
―Aさんだと、祈りの時間を大切にされていますよね。祈りのとき、いま何分間祈ったかなとか、かんがえます?
Aさん ない、ない(笑)。それは祈りじゃないもの。
―そう、まさしくその瞬間の意識にこそ、「永遠」がある。
Aさん あ!、なるほど。すごい納得。
Bさん 私だけ、わからない~(笑)。
―ヴィトゲンシュタインの哲学は、前期・後期と分けて説明されることが多く、僕もふつうはそれに従っていますが、問題意識というか、基本的なテーゼは一貫しているように思えるんです。学者の間でもいろいろな意見はありますが、僕はそんな風にヴィトゲンシュタインを読んでいるし、だからこそヴィトゲンシュタインという人間に、はかり知れないほどの魅力を感じています。
じゃあ、また問いに戻ります。Cさん、お願いします。
Cさん 「永遠であるのは私ではない」。なぜなら、ひとりぼっちだから(笑)。
Aさん ひとりぼっちですか!
Cさん そうなんですよね。「永遠であるのは私である」というときは、むしろ「私」という感覚があまりなかったんです。私が浮上しないというか。でも「永遠であるのは私ではない」。この「私ではない」と言ったとたんに、一気に「私」が浮かび上がってきたんです。なんでしょう、これは。
―今日の答えで面白かったのは、3人とも「私」という意識がなぜか浮かび上がり、言葉の中に現れたということです。「私ではない」と否定したとたんに、なぜか「私」が浮かび上がってくる。今日のお話をまとめてみると、これはどうも偶然ではなく、なにか意識の必然の動きなんじゃないかと思えてくる。じゃあ、この「意識の必然」とやらって、何だろう。ここでまた新しい問いが生まれてきました。
Aさん 問いって次々と増えていくんですね…。いやー、面白い。
Bさん 今日はもう、頭がついていけません(笑)。でも、なんとなくですが、頭がこう、宇宙になっていくような気がして、良い感じでした。
Cさん 面白いことは面白いんだけど、意識の奥底にある、不思議な世界を垣間見た気がする。ヴィトゲンシュタインの哲学って、すごく興味深い。
―次回は、この否定したとたんに「私」が浮かんできた、ということをもう少し深掘りしつつ、3つ目の問いに挑みたいと思います。
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