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ワークショップ日記③~『永遠』をめぐって。私は永遠でありかつ永遠ではない~

  • kazenooka
  • 2024年7月19日
  • 読了時間: 5分

更新日:2024年10月11日




―『永遠』のワークショップ、後半戦となります。

 前回までは「私は永遠である」、「私は永遠ではない」という二つの文で、「永遠」について考察してみました。

今日は3つ目の文になります。

「私は永遠でありかつ永遠ではない」。

なぜなら、という文に続いて、文章を完成してみて下さい。


〈Bさん〉すみません。まったく意味がわかりません…。永遠なのに、永遠じゃないということですよね。ここで言っていることが、矛盾していませんか?


―そうですね。西洋論理学でいえば、典型的な矛盾です。アリストテレスなら矛盾律ということで、即刻排除することばの使い方です。ただ仏教やインド哲学では、必ずしも矛盾は排除すべき対象ではない。ひとつのことばの在り方なんです。


Bさん〉それはわかりますけど…。私は一番最後にお願いします(笑)。まったくわかりません。


―ではAさんからお願いします。


〈Aさん〉難しいな…。とりあえずつくってみました。私は永遠でありかつ永遠ではない。なぜなら、私という存在は永遠ではないが、私を取り巻いている世界は永遠であるから。自分で話していて、よくわからない(笑)。


―私と世界は別なのですか?


〈Aさん〉いえ、かさなっている部分もある。なので永遠の部分もあり、そうじゃない部分もある。苦しいな~(笑)。


〈Cさん〉私の中にも、永遠の部分と永遠じゃない部分がある、ということですか?


〈Aさん〉あ、そうか。私の永遠ではないところは「肉体」で、永遠のところは「精神」といえば、わかりやすいかな。


―「精神」と「肉体(身体)」。西洋哲学でいう、二元論の難問をいきなり指摘された(笑)。もう一度お尋ねしますが、精神と肉体は分離できるもの?


〈Aさん〉自分で言っておいてなんですけど、難しい!


―余計に難しくしてしまって恐縮だけど、ここで以前お話したカントの表象論を想い出してほしい。

 カントによれば、僕たちはつねにすでに時間と空間という感性を通してものごとを理解しているため、「物自体(物そのもの)」を認識することはできず、感性を通して構成された(表象された)「もの」をみているに過ぎない。そうなると、僕たちはそもそも「肉体(身体)」自体を認識することができるのだろうか。僕たちが言っている「肉体(身体)」とは、意識に表象された「肉体(身体)」をみているに過ぎないのではないか。


〈Aさん〉つまりは、我々がふだん言っている肉体というのは、あくまでも意識に表れた肉体だということ?


―そうだとしたら、先ほどのAさんの答えはどうなるのだろう。


〈Aさん〉でもそうなると、「精神」もあくまでも意識に表れたものいうことになる。じゃあ、永遠なのは、あらゆるものを表象する意識ということかな?


〈Cさん〉永遠であるものも、永遠ではないものも、意識のあらわれに過ぎない、ということなると…。え、なにそれ(笑)。いや、なんかいきなりすごい話になったな。


―では、この辺でいったん話を打ち切って、Cさん、お願いします。


〈Cさん〉私は永遠でありかつ永遠ではない。なぜなら、繰り返しの循環にいるのだけれど、それを体験することができないから。


―「繰り返し」が永遠ということ?


〈Cさん〉生と死を繰り返す、生命の大いなる循環。私たちはその中にいるのにも関わらず、その循環を自分自身で直接体験することができない。「繰り返し」って、あまり良いイメージがないんですけど、繰り返すからこそ永遠という気がします。


―ルーチンワーク、とかね。


〈Cさん〉そういうふうに使われがちですよね。惑星の軌道のような、とても大きな循環を体験できないからこそ、そういう理解になってしまうのかもしれません。


―ではBさん、大丈夫ですか?


〈Bさん〉えーと、私は永遠でありかつ永遠ではない。なぜなら、死んだ後、もし私の自我があったとしても、誰かがそれを認めてくれなければ、私がいることにはならないから。


―亡くなった後、そこにBさんが仮にいたとしても(永遠)、その姿を誰もが知ることができなければ、そこにBさんがいたことにはならない(永遠ではない)ということかな。


〈Aさん〉他人が認めるから、永遠ということ?


〈Bさん〉自分はここにいると主張しても、誰かがそれを認めてくれないと、自分はいたことにならないと思うんです。


〈Cさん〉死後も自分、自我があるのか、というとても難しいもんだいになってきた。


―確認ですけど、Bさんは、死後も自分(自我)という意識はある、と。


〈Bさん〉仏教の輪廻だと、生まれ変わったりするわけだから自我はあるんだと思います。自我がないと、生まれ変わったことがわからない。


―でももし死後に自我があるとしても、その人の自我がそこにあることを証明する人がいなければ、そもそも自我あることにならない。


〈Bさん〉そうだと思うんですよね。例えがおかしいかもしれません、山小屋にひっそりと1人で住んでいる人がいたとしても、その人のことを他の人が知らなければ、その人がいたことにはならないんじゃないかな。


〈Cさん〉死んだ後も、人間関係で悩まなくてはならないとなると、なんか大変な感じだ。


―「AでありかつBである」という文は、矛盾を内在させていることばなので、その根拠を問おうとすると、僕たちの普段のことば遣いを越えていかないと、なかなか辿れない。日常のことばは、たいがいは「Aである」か「Aではない」かの、二つの文によって構成されていますから。来週は最後の文に挑むのですが、その前にその「ことば」について、少し寄り道をしてみましょう。

カントの物自体ではないのですが、「ことばそのもの」って、どこにあると思いますか?


〈Aさん〉会話の中?


―でも、煎じ詰めていけば、会話でやりとりされているのは音ですよね。なんらかの声の振動が音となって響き、それを受け取り、また声の振動を渡し返す、みたいな。どこにことばそのものはあるんだろう?


〈Cさん〉え、じゃあ文字?


―文字だって、煎じ詰めれば線の交わりに過ぎない。Bさん、ことばそのものはどこにあるんだろう?


〈Bさん〉私に聞かれても困ります(笑)。


―永遠だって、自我だって、肉体だって、精神だって、意識だって、所詮はことばに過ぎない。こういう言い方は、もちろん可能だ。じゃあその、ことばそのものってどこにあるんだというと、これがよくわからない。人間は言語的動物といった人がいたけど、そうなるとよくわからないものを使っている動物ということになってはしまわないか。ということで、来週は最後の問いになります。

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