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ワークショップ日記④~『永遠』をめぐって。私は永遠であるのではなく、永遠ではないのではない~

  • kazenooka
  • 2024年7月29日
  • 読了時間: 8分

更新日:2024年10月11日



―ワークショップ『永遠』、最後の回がやってきました。

「私は永遠であるのではなく、永遠ではないのではない」

「なぜなら…」に続く、この文を完成させてください。


〈Aさん〉ちょっとまってください。これ、日本語として文章になってなくないですか?


〈Bさん〉ぜんぜん意味がわかりません。


―じゃあ、一度声に出して読んでいただいていいですか。


(一同、声に出して読んでみる)


〈Aさん〉「あるのではない」ということは「ない」ということで、「ないのではない」ということは「ある」ということ?


〈Bさん〉これまでの3つの文(「私は永遠である」、「私は永遠ではない」、「私は永遠でありかつ永遠ではない」)は理解できたけど、最後の文章は何をどう理解すればいいのかわかりません。


Aさんの言うように、「あるのではない」は「ない」ということだから、「私は永遠ではない」。「ないのではない」は「ある」ということなので、「私は永遠である」ということになると、つなげてみれば「私は永遠ではなく、永遠である」ということになり、結果的には3番目の文と意味は同じじゃないかということになる。

では、4番目の文は意味がないということなのか。確かに西洋論理学的にかんがえれば、これは肯定と否定の順序が変わっただけなので、3番目と同じということになり、改めて考察する必要はなしとなる。そもそもアリストテレスの論理学でいえば、34番目の文は「Aでありかつ非Aである」という典型的な排中律に背く文なので、どちらも思考するに値しないということになる。

でも不思議なことに、仏教の祖・釈尊は34番目の言い方を使っていて、どうも4番目の言い方にとりわけ智慧の輝きをみていたような気がするんだよね。


〈Bさん〉なんかもっとわからなくなってきた(笑)。


3番目と4番目の文が同じということに関してだけど、こんなふうにかんがえてみてはどうだろうか。釈尊は、ことばは順番通りに理解することが大切だと言っていた。ことばを正しく理解するには、順番通りに理解しなさい、と。

先ほどのように34が同じ文とするには、当然の前提として以下のように文を区切っていたことになる。


「➀(私は永遠)であるのではなく、②(永遠)ではないのではない」。


なので➀は「(永遠)ではない」となり、②は「(永遠)である」となる。

ところが、釈尊の言うように順番に声に出して読んでみて、理解しようとすると、以下のような区切り方の方が自然じゃないだろうか。


「➀(私は永遠である)のではなく、②(永遠でない)のでもない」。


➀と②の(カッコ)の中の文は、1番目(Aである)2番目(Aではない)の文となりますね。そうなると4番目の文は、1番目と2番目の文の両方ともに否定するような、そのような否定であるとすれば、どうだろう。

最初にもお話したように、僕たちの日常のことばの使い方は、ほぼ1番目と2番目の文のかたちをとっている。3番目の「Aであり、非Aである」なんてことをもし仕事中に言っていたら、“わけのわからないことを言うな”と、一喝されてしまうかもしれない。それくらい、僕たちの日常の世界は、1番目と2番目の文で構成されていると言ってもいい。

ところが、4番目の文は、日常の世界にとって最も大切なはずの1番目と2番目の文を、両方ともに否定する。じゃあ、この先にはどんなことばの世界があるんだろうか。それを一緒にかんがえてみたい。


〈Cさん〉先週からこの問いをずっとかんがえていましたけど、なんか知らない世界が開けてきた感じがする。


〈Aさん〉あ、そうなんですか。私は、まったくわからない。


〈Bさん〉がんばってみますけど、もう少し時間をください。


―では、できましたかね。Aさんからお願いします。


〈Aさん〉そうですね…。「私は永遠であるのではなく、永遠ではないのではない」。なぜなら、私は老後や死を恐れているが、同時に神の御許に行けることも信じて疑わないから。

クリスチャンなので神の御許に行けることは信じているけど、老後や死への恐れは消えない。矛盾しているのだけど、これはどうしようもない真実ですね。信仰がまだ足りないのかもしれませんが…。


―信仰という視点からは、そう解釈できるということですよね。この矛盾を少し異なる視点から見てみましょう。西田幾多郎という哲学者がいます。個人的にとても大好きな哲学者です。


〈Aさん〉京都の人でしたっけ?


―京都学派の始祖ですね。この人の有名な哲学テーゼに「絶対矛盾的自己同一」というのがあります。難しく言おうとすれば果てしなく難しく言える概念なのですが、簡略化して言えば、白と黒など、矛盾するようなことがらがひとつになっているという、もう絶対的な矛盾としか表現できないような出来事が起こっている場所が自己なんだ、ということです。

Aさんの話ですと、神の御許に行けるのはわかっているけど、老後や死の不安が止められないというこの矛盾があるからこそ、それが自己なんだ、自己ってそういうことだよ、ということになる。


〈Aさん〉なるほど。面白いなぁ…。ときどき自分はクリスチャンじゃないんじゃないかと自分が疑わしいことがあるけど、自分とはそういうものだということか。


〈Bさん〉そうかんがえると、なんだか気持ちがラクになりますね。


〈Cさん〉絶対矛盾を肯定するということは、そのまま自分のあるがままを認めるということ。そういうことか。自分なんて、矛盾だらけですもんね。


―ではBさん、お願いします。


〈Bさん〉「私は永遠であるのではなく、永遠ではないのではない」。なぜなら、続いていくのもあるし、変わっていくのもあるから。

えーと、例えば自分が死んだあと、自分がかんがえていたことが、もしかしたら生前直接交流がなかった人の心に芽生えることがあったとしたら、それは私の考えというか意識が永遠に続いていくということになるんじゃないか。でも、やっぱり時代が変わっていけば考え方も変わっていくのだろうから、永遠であるけど、変わることもあるんだと。


〈Aさん〉Bさんのかんがえていることが、Bさんから直接伝えられて芽生えるということだけじゃなくて、ぜんぜん交流のなかった人の頭の中に芽生えることもあるんじゃないか、ということ?


〈Bさん〉そうですね。ファンタジーかなと、自分でも思いますけど(笑)。


―あるひとつの考え方が、その人との直接的な交流なくして芽生えていく。ニュアンスは異なるかもしれないけど、ヤスパースという精神病理学者であり哲学者の「包括者」という概念を頼りにすると、道が開けてくるかもしれない。

ヤスパースによると、主観や客観、自分と他人など、それだけで存在しているものはなく、すべてなんらかのつながりの内で存在しているという。なぜなら僕たちはつねにすでに「わかりあえる(comprehensive)地平」、すなわち包括者に包まれているからだ、と。

そうかんがえれば、僕たちはつねにすでにつながっているわけだから、生前に直接的な交流はなくても、その考え方が誰かに受け継がれていることは、十分にありえることだということになる。思考の遍在性というのかな。包括者のもとでは、様々な思考が時空を超えて遍在する。


〈Cさん〉すごい、一気に視界が開けた()


〈Bさん〉言っておいて、自分でも驚いています()


〈Aさん〉その包括者って、神に等しい存在なのですか?


―あくまでも哲学なので、そう断言はしていないけど、限りなくそうだろうね。


〈Bさん〉私は、人は死んでもその思考は残ると思っているので、ヤスパースの包括者という考え方は、なんかとても合います(笑)。


―では最後にCさんお願いします。


〈Cさん〉「私は永遠であるのではなく、永遠ではないのではない」。なぜなら、私は許されているから。


―許されている?


〈Cさん〉はい。私は存在することを許されているから。もう少し詳しく言えば、何を考えてもいいという、思考の自由さをもっていていいんだということ。

もしも、とか、ifを持つことを、私は許されている存在なんだ。うまく伝えることが難しんですが、そういうことです。


―この世界とは異なる別の世界があったならとか、つまりさまざまな可能世界を思考することができる


〈Cさん〉理論物理学で多元宇宙論ってありますよね。層の異なる宇宙を仮説として想定できるという。それが、もしかしたら自分の外側にあるのではなく、自分の内側、さっきの話で言うと、自己の奥底にもそういう多元宇宙があるんじゃないかと。


〈Aさん〉あ、なんか壮大な話しになってきたな。


〈Bさん〉自分の中に別の宇宙がある。私が言いたかったことと、つながっているような気がする。


―自己の最も深いところには、いったい何があるのか。先ほどの西田幾多郎によると、自己の深奥には「絶対の他」があると言っていた。「『絶対の他』がある」といってしまうと、やや誤解が生じるかもしれない。「絶対の他」としか言えない場所にいきつく、といった感じだろうか。


〈Aさん〉自分を掘り下げていったら、まったく別の世界に行ってしまった。それって、キリスト教だと祈りの中で神と出会う、そういったこととも相通じることなのかもしれません。


〈Cさん〉ふだん私たちって、あれしてはいけない、こうかんがえなければならない、とか、いろいろと思考を縛られている。でもそれは、もしかしたら、自分で勝手に縛っているだけなのかもしれない。今回の「永遠」のワークショップでは、その縛りに気づけて、それを解き放つきっかけを得たような気がします。


―ワークショップの感想までいただきまして、ありがとうございます(笑)。Aさんは、いかがでしたか?


〈Aさん〉面白かったですよ。クリスチャンとして、信仰を見つめ直すこともできましたし。個人的にはカント哲学への興味が湧きました。


〈Bさん〉難しかったけど、楽しかった。特に3番目の4番目の文が難しかったけど、やっていくうちに心が広がっていくような感じがしましった。


―ありがとうございました。あの…、じつは今回のワークショップは「永遠」の前半というか、ビギナーズコースなんです。まだ後半、上級者コースがあるんです。


〈Aさん〉〈Bさん〉〈Cさん〉えー!


―では、来週、後半戦へと移ります()


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