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ワークショップ日記②~『永遠』番外編。キリスト教・予定説をめぐって~

  • kazenooka
  • 2024年7月15日
  • 読了時間: 6分

更新日:2024年12月23日

 



ーこの前のワークショップのとき、キリスト教の話が出てきました。キリスト教について知りたいという要望もありましたので、後半のワークショップをより深めるために、今回は番外編ということで、キリスト教についてかんがえてみたいと思います。

 ただことばのワークショップらしく、ここでひとつの言葉を提示します。


《つねにすでに》


Cさん〉「つねに」と「すでに」は別の意味のことばじゃないのですか?


ー日常的には、そうですよね。これをつなげると異なった意味合いを照射します。西洋哲学、とくに現象学系統の言説では、よく見受けられることばです。

 クリスチャンであるAさんがおられますので、対話をしながら進めていきますね。

 途中、わからないところがあれば、その都度ご発言、お願いします。


Cさん〉この前『永遠』の話をしているとき、Aさんが、“自分は救われているという確信がある”という話をされていて、それがとても印象的でした。仏教だと修行して悟るみたいな段階があるんですけど、キリスト教だといきなり救われちゃうんですか?


Aさん〉こういうことをしたから救われるということは、ありませんね。救われているというところから始まります。


Bさん〉何もしないのに救われる?


Aさん〉聖書を読んだり、祈りのときに神と出会うということはありますが、それをしないと救われないということではありません。


Bさん〉〈Cさん〉この辺が不思議…。


Aさん〉それが信仰ということなるんでしょうね。


ーキリスト教のおける救済(救い)について理解しようすれば、やっぱり予定説は避けられないんじゃないかと思うんです。カルバンが提唱した救済観なので、カソリックなど受け入れていない宗派はもちろんありますが…。


Aさん〉私も最初に予定説を知ったのは、小室直樹の本を通してだったかな…。予定説は、自分の信仰を再確認する契機になりました。


ーでは、クリスチャンでもない僕が、予定説について説明いたします。

 じつは10年近くプロテスタントの教会に通っていたのですが、そのときどうしても理解できなかったのが、この予定説。でも最近、これは究極の教えなのではないか、突如気づき始めた。

 先ほどCさんが仏教だと修行をしないと悟れない(救われない)という趣旨の話をされましたけど、これとてもよい例ですね。確かに仏教では、まぁ仏教にもいろいろありますけど…、たいがいにおいてはなんらかの修行をして、その後悟り(救い)を得るという順番になる。浄土系の仏教でも、一般的には念仏を唱えるから救われるという形式をとる。つまり大小さまざまでも、修行をしたり、念仏を唱えるなどのなんらかの「努力」の果てに訪れるのが悟り(救い)ということになる。

一方、キリスト教の予定説によれば、救われる人と救われない人は、最初から決められている。つまり、なにか善いことをしたから救われるのではなく、その人が何をしてもしなくても、救われるということになる。


Bさん〉え! なんか不公平…。


Cさん〉最初から決められていると言われると、どうしていいのかわからなくなるような…。予定説って、宿命論とも言われているそうですよね。



ーたぶん、僕たちクリスチャンではない人からすると、とても不公平に思いますよね。

 じゃあ最初から決まっているのなら、何をしてもいいんじゃないかと。極端な話、最後は救われるんだから、どんなに悪いことをしてもいい。ぎゃくにどんなに善いことをしても、救われない。そうなると宿命を受け入れろ的な、なんだかとても苦しいだけの教えに聞こえる。

 ただね、予定説の重要なポイントは、肝心の誰が救われ、誰が救われないかは人間にはわからないというところなんです。


Cさん〉人間にはわからない…。どうすればいいんですか(笑)。


Aさん〉自分は救われているんだ、と信じる。だから信仰なんです。


Bさん〉でも、救われるかどうかは、人間にはわからないんですよね。どうしてAさんは、自分は神様から選ばれていると思えるんですか?


Aさん〉自分は救われている、そう信じているとしか言えないんです。


Cさん〉いまのニュアンスだと、信仰を持ったから救われるというのではくて、最初から救われていた、という感じなのですか。


Aさん〉そうですね。自分は救われていたということに気づいた、という感じが近いかな。


ーここで今日のキーワード《つねにすでに》を思い起こしてみましょう。

 「つねに」は“いつも”という意味で、「すでに」は“過去のある時点からずっと”という意味ですから、本来は異なる意味ですね。でもこのことばをつなげてみると、過去のある時点から起こったことがずっと変わらずいまも継起されている、ということになる。それもそれは、本人が気づくか気づかないかに関わらず、起こっていることなのだ、という意味合いとなる。

 Aさんの話によれば、自分は「つねにすでに」救われていたことに気づいた、ということになる。


Aさん〉そうですね。「つねにすでに」は、信仰的にはしっくりいく表現かもしれない。


ー「つねにすでに」は、日本語ではあまり使われない表現だけど、先に言ったように西洋哲学では、比較的よく使われる。ということは、やはり西洋哲学、特に中世以降の西洋哲学は、キリスト教の信仰を前提にしているとかんがえてもいいかもしれない。日本人が西洋哲学を理解しようとするとき、この前提をどう理解するかで、まるで理解の質が変わるような気がしています。

 そこで、どうでしょう。

 いままで気づかなかったけど、自分はじつは最初から救われていたのだ、と仮定してみたとき、自分のことばがどんなふうに変化すると思いますか?


Bさん〉あ。なんか気持ちがラクになる。これでいいんだ感が出るみたいな。ラクにことばを話せるようになる。


Cさん〉なにか落ち着いて話せるような気がしますね。Aさんって、いつもこんな感じなんですか?


Aさん〉いつもそうとは限らないけど、聖書があるので、なにかのたびにそこに立ちかえることができる。聖書のことばと自分のことばをつなげていきたいので。


ー前回のワークショップで、ヨハネによる福音書の一節、「初めにことば(論理)ありき」を紹介しました。すべては初源から決められているのだと。予定説も同じですね。救われる人は、「つねにすでに」救われていたのだ。ここから、何が始まるのだろうか。


Cさん〉過去の見直し? 過去の出来事の解釈が変わるような気がする。


Bさん〉あ~、なんかわかる。なんかわかる(笑)。


ーAさん、どうですか。


Aさん〉私は、いままでいろいろとありましたので、信仰がなければ生きてこられなかった。だから、そもそも信仰がないという人の生き方が、ちょっと想像ができない。なので、なかなか比較ができないんですよね。


ー過去の解釈が変わる。過去は変えられないとよく言われるけど、過去の在り方が変わってしまう。過去についてのことばの使い方が、根本から変わる。これってすごいことだと思いませんか?


Aさん〉だからこそ、宗教の怖さを感じます。これだけまるごと人を変えることができるものは、宗教のほかにはないから。


ーそして次回、『永遠』の後半戦に挑みます(笑)。






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