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「思い込み」論考②~龍樹の『中論』のことなど~

  • kazenooka
  • 2024年3月20日
  • 読了時間: 4分

 




 ぼくはもともと西洋哲学が好きだった。

 「在野の哲学者」小阪修平さんの勉強会に参加させていただき、いま思えば錚々たる皆様の中で貴重な学びができた。

 そのときぼくは木村敏やブランケンブルグなど、人間学的精神病理学の思想を研究していて、何度か発表もさせていただいた。小阪さんの最も好きな書物のひとつが『デボラの世界』だということもあり、精神医学は小阪さんの関心の深い領域だったので、とても新鮮な角度からご批評をいただけた。

 この頃小阪さんは、ヴィトゲンシュタインの言語哲学への思索を深めていったときのように思う。

 精神疾患とヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』や『哲学探究』を絡めて論じられているのを聴き、ぼくの中でヴィトゲンシュタインを始めとし、言語哲学への興味が俄然湧いてきた。


 そんなとき、きっかけはよく覚えていないのだが、中村元さんの『龍樹』と出会う。

 なかでも、『中論』の出だしのフレーズには度肝を抜かれた。


 〔宇宙においては〕何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることなく(不断)、何ものも常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることはなく(不異義)、何ものも〔われらに向かって〕来ることもなく(不来)、〔われらから〕去ることもない(不出)、戯論(形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する。

 

 これまでぼくが馴染んできた西洋哲学的な論理世界では、「有る」の反対は「無い」なので、このずっと「ない」が続く論理世界が、まるで理解できなかった。

 ところがこの「ない」の果てにあらわれる出来事は、なんと形而上学的論議が消えていくことなのだという。

 そう、ぼくたちはふだん、有るのか無いのかわからないようなことがらを、言葉によって構築し、そしていつしかそれが客観的に存在している「構築物」のように感受するようになり、いつしかその「構築物」によってぎゃくに押し潰されていく。

 例えばいま流行りの「自己責任論」なんてのも、もともとはたんなる言葉のつらなりに過ぎない。しかしいつしかその言葉のつらなりが、現実に存在しているような質感を与えるようになり、「自己責任論」がやがてぼくたちの生を圧迫するほどまでになってしまっている。

 もしかして『中論』がわかれば、そんな言葉のからくりの一端が、明晰になるのではないか?

 こうしてまるで何かに憑りつかれたかのように、『中論』にのめり込んでいった。

 

 まず、すでに去ったもの(己去)は去らない。まだ未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの(去時)>も去らない。(第二章 運動の考察)

 

 ???

 最初に読んだときは、頭の中で脳みそがよじれる音がした。

 さっぱりわからない。

 それでも果敢に読み込んでいくと、なんとなく朧気ながら見えてくる構図がある。

 確かに、「去ったもの」はすでに去っているのだから、改めて「去る」ことはないし、まだ「去っていないもの」は、これから去るのだから、いまは「去らない」。

 なるほど。

 でも「現在去りつつあるもの」は、いま去っているんだから「去らない」ではおかしいのではないか?

 しかし龍樹はこんな但し書きをつけている。

 

 さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの(去時)>

 

 「離れた」?

 あ、そうか。

 厳密にいえば、「去るもの」はすでに去ったのか、まだ去っていないのかしかかないのだから、そこに改めて「現在去りつつある」という言葉をつくる必要はないのか。

 ところが、「現在去りつつある」もそうだが、それを「現在去ろうとしている」、「今まさに去る瞬間である」とか、厳密な場所を離れた言葉は、それこそ無尽蔵に言い換えられ、増殖していく(僕たちはそれを、「ボキャブラリーが豊富」とか言っている)。

 この無尽蔵に増殖していく言葉のつらなりを釈尊、龍樹は戯論(形而上学的論議)と言って、ぼくたちの迷い(とらわれ)の源泉とみたのではないか。

 ぼくたちはふだん、どれほどの戯論にまみれているんだろう。

 ますます『中論』にのめり込んでいった。

 

 『中論』を読み続けて、はや20年。

 この本は、たぶん僕たちが何気なく身に付けてしまった、さまざまな「思い込み」を、自分で気づいて、自分で排出させるようにする、「解毒剤」なのだ。

 龍樹という菩薩が、思い込みに苦悩するぼくたちに向けて書いてくださった、処方箋なのである。

 この処方箋のすごいところは、その論理構造は難解の極みなのだが、文体がどことなくユーモラスであるため、とんでもない苦味の中に、芳香な甘さを漂わせている。

 論理とユーモア。

 思い込みに悩んでいる方への支援の地平が、少しずつ形象化されつつあった。

 
 
 

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