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今日のコトバのワークショップのテーマは、「永遠」です。まず永遠という言葉を定義していただけますか。できた方から発表していただきたいのですが。
〈Aさん〉 始まりはあるけど、終わりがないもの。自分でもよくわかりません
ははは、そうでしょうね。
〈Bさん〉 修行僧かな。
修行僧?
―なんかずっと、終わりがないまま続けていかなければいけないみたいな…。仏教の輪廻ですね(笑)。
なんだか、すごいな(笑)。
〈Cさん〉 イメージは湧くんだけど、言葉にできない。あ、それが定義になってるかも。
永遠を定義するのは、本当に難しい。ざっくり言ってしまえば、人間という生命体は何よりも有限だということで成り立っている。生活も言語も。そうなると永遠はその対極というか、彼岸だと言えるからね。
それで今日のワークショップは、その永遠という言葉と「私」の関係性を探ってみたい。
まず最初の設問は、「私は永遠である」。
「私は永遠である」と言い切ってみてください。そして、「なぜなら…」という形式でその理由を書いてみてください。
〈Cさん〉書きようがありませんよ。私はいつか死ぬんだから、永遠じゃないもの。
常識的に言えばそうですよね。よくわかります。だからこそ、せめて言葉の世界だけでも、「私は永遠である」という世界をつくってみませんか。そこから何かが見えてくるかもしれない。これもじゃあ、できた方から、お願いします。
〈Bさん〉 「私は永遠である」。なぜなら輪廻のように、次にまた生まれ変わるから。おばあちゃんがそう言ってました。
仏教の輪廻の教えでは、そうなりますね。
〈Aさん〉 「私は永遠である」。なぜなら、信仰があるから。クリスチャンなので。
キリスト教だと、死後に永遠となるということですか?
〈Aさん〉 そうですね、死とは神の許に戻るということですから。でも、なんというか神の言葉に触れたとき、すでに永遠の生命を得たというほうが正確かな。
〈Cさん〉 「私は永遠である」なぜなら、美しいものに触れているときに時間を忘れるから。
あ、すごい。プラトンのイデア論のようだ。
〈Cさん〉 プラトン?
ギリシアの哲学者です。ソクラテスのお弟子さんで、ソクラテスについての本はほとんどプラトンが書いたと言っていい。ここでひとつ思索の時間。先ほど「美しいものに触れているとき」とおっしゃいましたが、例えば何らかの絵画を見たとき、「美しい」という感覚に襲われたとします。ではそのとき、この「美しい」という感覚は、どこからやってきたのでしょうか。そもそも「何が美しいのか」ということを知っていないと、「美しい」という感覚はやってこないのではないでしょうか。どうですか?
〈Cさん〉 はー、難しいことを言うな…。もし何が美しいかを知っていたからとしても、いつ知ったんだろう?
〈Aさん〉 子どもの頃からの環境?
〈Bさん〉 学校の美術の授業?
〈Aさん〉 それは、ないんじゃないの(笑)。
プラトンによれば、僕たちは遥か以前から「何が美しいか」を知っていて、何かを美しいと感ずるということは、それを想い出しているということなんじゃないかといっている。そしてその「何が美しいか」という知識は、じつはひろく共有されていて、だからある絵画を見たとき、それを自分以外の人も美しいと感じることができる。それは「美」だけではなくて、「真」と「善」も同じだということらしい。
では次の設問にいきます。
「私は永遠ではない」。
〈Bさん〉 えーっ。さっきの反対!
はい。いませっかく「私は永遠である」という理由を必死にかんがえたのに、次はなんとそれを否定する理由をかんがえなくてはならないという…。とりあえず、これもできた方から、どうぞ。
〈Bさん〉 「私は永遠ではない」。なぜなら、自分は誰かに存在を認めてもらわないと、自分がいるのかいないのか定かでないから。
すごい、道理(理由)が出てきました。自分がいるというのは、他人の承認がないと成り立たない。
〈Bさん〉 はい。自分は自分なんだ、と思いたくても、あなたはあなただよね、っていってくれる人がいないと、自分がなんなのかわからなくなってしまう。かつて、そういうときがありました(笑)。
いや、すごいな。「自分は自分だ」は「あなたはあなただ」という承認があってこそ、成り立つ。これ、ヘーゲルなど近代のヨーロッパ哲学がずっとかんがえてきたことのエッセンスを、一言で言ってしまった(笑)。
〈Aさん〉 「私は永遠ではない」。なぜなら、孤独を感じるから。家族や身近な人が亡くなってしまった後、自分はどうなるんだろうと思うと、やはり永遠じゃないよね、という気持ちになる。
話はずれるけど、その孤独感って、ずっと人類が抱き続けてきた感覚だと思う?
〈Aさん〉 どうでしょうね…。何かを意識し始めたときからかもしれない…。
〈Cさん〉 死ぬこと? いや家族とか身近な人が必要と思ったから? でも身近な人を大切にできるのは、親近感みたいなことがないとできないし。
〈Aさん〉 でも孤独感があるから、親近感が湧いたんじゃないの?
〈Bさん〉 隣で聞いていて、頭がパンパンになってきました(笑)。
とりあえず、ハーブティーでも飲んで一息ついてください。
〈Cさん〉 「私は永遠ではない」。なぜなら「美しさ」など、時間を超える感覚に気づかなくなるときがあるから。先ほどのぎゃくですね。
なるほど。「気づかなくなる」というところが、ミソかな。
〈Cさん〉 仕事とかで追い込まれてくると、美しいものに出会えたとしても、それに気づかなくなるというか。目の前のことに忙殺されて日々が過ぎていくような。
永遠とは、外側にあるのではなく、自らの内側にあるということかな。先ほどの「美しさ」だけど、プラトンによれば、それはもともと知っていたことなんじゃないか。それが仕事など、日常のことに忙殺されていくと、知っていることを忘れてしまう。つまり「美しい」ことに気づかなくなってしまう。
ここでまた、みなさんとかんがえてみたいことがある。例えば何万年も前に描かれた壁画でも、僕たちはその「美しさ」に気づくことができる。ということは、何を見たら美しいと感じるかということは、もしかしたら僕たちがこの世に生まれる遥か以前から決められていることなのかもしれない。
同じように、先ほどの「孤独感」。ある状況になると、自らの内にある「孤独感」に気づく。この孤独感への筋道は、「美しい」と同じように遥か以前から決められているということになるんだろうか。
〈Aさん〉 確かに、そうかんがえれば、古典的な小説を読んでいても、その孤独感に共感することがありますよね
じゃあ、他人から承認されないことへの自分の不確かさ、不安感みたいなものはどうだろう?
〈Cさん〉 ギリシア神話とかでも、けっこう孤独感とか不安感を共感できるといえば、できるな。
ということは、僕たちが自分だけの経験だと思っていることも、もしかしたら遥か以前から決められていた、なんてことにならないだろうか。突然なようだけど、ここで取り上げてみたい言葉が、聖書の「ヨハネによる福音書」の最初の一節。
〈Aさん〉 「初めにことばありき」。
そう。クリスチャンの方は当然ご存じですよね。この「ことば」というのはロゴスという意味で、論理的、つまりものごとが起こるときの筋道のこと。キリスト教の教えでは、そもそも神は人間の感情などの心の論理(筋道)だけじゃなくて、世界のすべての論理(筋道)を最初につくられたのだという。
そうかんがえれば、「美しさ」も「孤独感」も「不安感」も、じつは僕たちが生まれる遥か以前からすでに決められていたということになる。極端なことを言えば、僕たちが「美しい」と感じたときは、それは何万年前の人々も同じように感じということだし、「孤独感」も何万年もの前の人々も共有していたことだとなる。すると、僕たちのきわめて個人的な経験である感覚でさえも、そこに計り知れない人々の存在と痕跡を承認するという経験となる。例えばいま飲んでいるハーブティーも、遥か以前から、多くの人々がこの美味しさを共有してきたのだと。いまこの「美味しい」という感覚の中に、歴史と多く人々の生命がそのたびに躍動しているのだと。
そうするとね、キリスト教の考え方からすれば、僕たちがこの世に生まれ、いろいろと経験したことも、じつはあらかじめ定められているということになるんだ。僕たちの経験している世界は、じつはすでに終わった後の世界だということになる。
あっ、ごめんなさい。ちょっと口が滑り過ぎたかもしれませんね。
では、今回はこの辺で。来週は後編になります。