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ワークショップ日記⑥~『永遠』をめぐって。「永遠であるのは私である」~

  • kazenooka
  • 2024年9月2日
  • 読了時間: 7分


―では、始めます。

【永遠であるのは私である】。

なぜなら、の後をつなげてみましょう。


〈Bさん〉 最初にお聴きしたいことがあります。前回のとき主語を名詞にしないで「it」とかにすると、少し大きな世界を感じることができるんじゃないかという話になりましたけど、あの話を前提というか、踏襲してかんがえるということですか?


―いえいえ、この前の話は余談程度でいいですよ。自由にかんがえてみてください。


〈Bさん〉 よかった。この前の話、かんがえればかんがえるほど、わからなくなってしまいました()


―では、Bさんからお願いできますか。


〈Bさん〉 「永遠であるのは私である」。なぜなら、人間は自分で選択しているように見えるが、動かされる、流されている存在であるから。


―まさにこれは、前回の「es/it」じゃないですか(笑)。


〈Bさん〉 そうですか()。これまでの自分のことをいろいろ振り返ってみると、どうしてあのとき、あんなことを言ったり、したりしたんだろうと、自分でもよくわからなくなるんですよね。


〈Cさん〉 良くも悪くもね。


〈Bさん〉 悪いことの方が多いような…。


〈Cさん〉 それは同じです()


〈Bさん〉 その自分ではわからないことを、すぐに「運命である」とは言えないような気がするんですが、でもいまになって思えばそうだったのかな…、と。


―いまの話をちょっと世俗的に言ってみたいんですが、吉本隆明という人がいます。少し前に亡くなられた詩人で思想家ですが、吉本ばななさんのお父さんと言ったほうがわかりやすいのかな。ちなみに僕が大好きな思想家の一人です。その吉本さんが「関係の絶対性」ということとを言っています。


〈Bさん〉 関係の絶対性? 絶対的な関係ではなくて?


―はい。『マチウ書試論』という、聖書の『マタイ書』を批評しているテクストで、「関係の絶対性」という言い方をしているんです。蛇足ですけど、この『マチウ書試論』は、若き吉本さんのむせぶような情念がこもっている、凄まじいテクストです。


〈Bさん〉 それで、関係の絶対性って、どういう意味なんですか?


―わかりやすくするために、後年吉本さんが「関係の絶対性」という考え方が出てきたときの背景を述べているインタビューがあって、それを参考に説明してみます。吉本さんはそのとき労働組合に所属していて激しい労働闘争の渦中にいたそうなんですが、会社側のいろんな人とやりとりをしていく中で、個人の意志とか見解なんかよりも、その時にその人が置かれている立場や関係のほうが、その人の具体的な言動を決めるときに絶対的なものなんじゃないかと、思ったそうなんです。自分の人生を思い返してみても、自分の思い通りになったことなんてわずかしかなくて、ほとんどはほかの要因に動かされていたんじゃないかと。


〈Aさん〉 言われてみればその通りだな。


―ところが思想的に論じようすると、そんな「関係の絶対性」じゃなくて、何かと個人の動機や想いみたいなことから人は動くんだみたいなことが当たり前の前提になっていて、それっておかしいでしょ、という感じだったそうです。


〈Aさん〉 なんかすごく当たり前のことを言っているだけのような気がする。


―吉本さんのすごいところは、そんなふつうの人のふつうな感受と、聖書とかマルクスとか、一流と言われる学者の思考を、同じ土俵にのせて論じるところなんですよね。これ、なかなかできないことですよ。


〈Aさん〉 それを関係というか、運命というか、それはそれで違うのだろうけど、でも自分が何かに動かされるという感覚は同じだということですよね。


―はい。この「動かされる」ということ、これをどう感受するかで、けっこうその人の思考の水準が決まっていくような気がします。

ではAさん、お願いします。


〈Aさん〉 「永遠であるのは私である」。なぜなら私は永遠の中に埋もれ、やがて去っていく存在であるから。

うーん、よくわからない()

私はクリスチャンなので、どうしてもそこからかんがえてしまう。私は神の御許にいるので永遠にいるのだけど、それでも現世からは去っていく存在。この矛盾した感覚をどうすればいいのかと。最近、自分はもしかしたらキリスト教徒ではないのではないかと、訝しく思うときがある(笑)。


―今回のワークショップでよかったことのひとつは、Aさんの話を通して信仰者の葛藤や苦悩を具体的に知ることができたことです。


〈Cさん〉 信仰って、一度何かを信じると決めたら、ずっとそうなっている、ということではなくて、つねに確かめ続けるという、そういう精神の営みだということがよくわかりました。励まされた気がします。


〈Aさん〉 そういっていただけると…()。でもなんとなくですが、「永遠」と「永遠である」の違いがわかってきたような…。

「永遠」というと、それがずっとそのままという感じですけど、「永遠である」というと、それがひとつの状態というか、いろいろとある可能性のなかのひとつというか、一瞬というか…。


―一瞬?


〈Aさん〉 そう。


―面白いなぁ。では、Cさん、いかがでしょう。


〈Cさん〉 「永遠であるのは私である」。なぜなら、言葉を必要としなくなるから。


―言葉を必要としなくなる?


〈Cさん〉 言葉を使わなくなっているときって、私という感覚というか観念がなくなる。永遠であるって、それなんじゃないかと。


―言葉を使わないときは、あえて私ということを意識しないでも済んでいる、ということかな。


〈Cさん〉 そのときが「永遠である」ということなんじゃないかと。


―ヴィトゲンシュタインの「永遠の現在」みたいだな…。でもただ今日はヴィトゲンシュタインのことを、やめておきます。ものすごく脱線しそうなので(笑)。

いまのCさんのご指摘、まさにこのワークショップでじっくりとかんがえてみたいところなんです。

突然ですが、「古池や蛙飛びこむ水の音」。

言わずと知れた松尾芭蕉の句です。日本人にとってはとても親しみ深い句ですが、改めて振り返ってみて、いったいどこがいいんでしょうか。即物的に言えば、ただ蛙が池に飛び込んだだけの話なのですが。

 

〈Bさん〉 まぁ、そういえば、そうですけど…。カエルが飛び込んだときの音かな。違うか()


〈Aさん〉 自分はあまりピンとこない句なんですけど、雰囲気とか趣とか、そういうところなんですかねぇ。


〈Cさん〉 なにかその…、言葉を越えたところの世界というか。例えば風景としては蛙が飛び込んだだけかもしれませんが、なんていうのかな、その奥にある何かを映し出している感じがします。


―単純化するようだけど、この「蛙」とか「古池」というのは、いわば「もの」の世界と言える。なので「もの」的な見方をすれば、蛙が池に飛び込んだだけだよね、と。

では、さきほどのCさんが言っていた「言葉を越えた世界」ってなんだろう。ここで感受された世界とは、蛙が池に飛び込んだという「こと」、蛙が池に飛び込んだ「こと」によって顕われ出た世界と言っていいんじゃないだろうか?

つまり、「蛙」や「古池」といった即物的な「もの」的世界ではなく、「もの」があるという「こと」、そして「もの」がある「こと(出来事)」を生起させることによって顕われ出る世界、つまり「こと」的世界。芭蕉のこの俳句は、僕たちに極めてシンプルなかたちで「こと」的世界を知覚させてくれているのではないかと。


〈Cさん〉 ということは、「永遠であるのは私である」という文は、永遠である「こと」、私である「こと」に重きを置いていると。


―そんなふうにかんがえていくと、ぐっと言葉の世界が広がっていくのではないか。


〈Aさん〉 そんなことかんがえたこともなかったなぁ…。


〈Bさん〉 それって、さっきの「動かされる」とどこかでつながっていく話なのですか?


―さっきのCさんのお話が大きな媒介になっているような気がします。


〈Bさん〉 そうなのかぁ…。頭がぼんやりしてきた。


―この雰囲気のまま、次回に続きます()



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