『希望のありか。今年の抱負をかんがえる』
- kazenooka
- 1月22日
- 読了時間: 8分

キルケゴールから始まる新年ってなんだ?
―新年、あけましておめでとうございます。
これから今年の抱負をそれぞれかんがえていただきたいと思っています。
昨年はロシアとウクライナ、イスラエルとハマスの戦争、アメリカ大統領にトランプが返り咲く、日本では裏金議員や疑惑の知事が再び選挙で選ばれるなど、本当に混沌とした一年でした。それが今年はそのまま引き継がれるわけですから、さらに混沌とすることが予想される。このまま、今年の抱負なんて言ったって、ロクな気持ちになれないだろうという気がするんです。
Aさん(利用者) そうでもないですよ。年末年始は美味しいものを食べられましたし(笑)。
―そういう方は、そのままのお気持ちで過ごしていただいて(笑)。それでワークショップ形式で、今年の抱負を一緒にかんがえてみたいと思います。
今日のワークショップは『死に至る病』という本をベースにして、進めていきます。キルケゴールというデンマークの哲学者が書いた、けっこう知る人ぞ知る的な有名な本ですけど、ご存じの方おられますか?
あ、2、3名いらっしゃいますね。
この『死に至る病』は、けっこう書名にインパクトがあるの、一度は目を通した人が多いそうですが、たいがいはすぐにギブアップしてしまうそうです。というのも読み始めた途端に、面食らってしまう、冒頭からこんな一文があります。
“人問とは精神である。しかし精神とは何であるか。精神とは自己である。しかし自己とは何 であるか。しかし自己とは関係自身に関係するところの―つの関係である。あるいは、その関係において、関係が関係自身に関係するということである。自己とは関係ではなくして、関係が関係自身に関係するということなのである。”
Bさん(利用者) これ日本語ですか(笑)? 全然わかりません。
―今日はこの文章がテーマではないので、あまり深くは入りません。ただ重要なのは、僕たちがふつうに「ある」と思っている「自己」なるものは、じつはそのものがあるのではなくて、ひとつの関係なんだ、もっといえば、そういう関係自体に関係するような、そういう関係のひとつのあり方なんだよ、と言い切っているところです。
Cさん(職員) まったくわかりません(笑)。
―で(笑)、とりあえず、まずは自己、自分というのは、それ自体であるんじゃなくて、つねに何かと何かの関係のあり方としてあらわれるとキルケゴールはかんがえていたんだ、というところを押さえておいていただければ大丈夫です。
今年の抱負は「宇宙に行くこと」と「転職すること」
ーそれでまず二本のラインを引いてみます。
その両端に「可能性」「必然性」、「具体性」「抽象性」と入れてみます。

―ちなみに『死に至る病』って、なんのことだと思いますか?
Aさん(利用者) 知ってますよ。確か「絶望」ですよね。
―そうです。この『死に至る病』は、よく絶望の心理学とか、絶望の分類学なんていわれています。絶望はこの四つに分けられるということですね。
ただキルケゴールは「可能性」「必然性」のほかに、「有限性」「無限性」という言い方をしています。ただこれだと少しわかりにくいので、「具体性」「抽象性」と言い換えています。
それで、これから今年の抱負を述べていただきます。
「可能性―必然性」というラインをみてください。
「可能性」というのは、英語だとcanですかね。できること、あるいはできうること。現実的なことは省いて、思いっきり想像力の翼を拡げてみてください。「必然性」はmust。しなければならないこと。現実のしがらみのなかで、しなければならないことを思い浮かべてみてください。
まずは今年の抱負として、かんがえうる限りで最大限の「可能性」としての今年の抱負、かんがえうる限りで、最大限の「必然性」を書いてみて下さい。
では、Dさん(利用者OB)、発表をお願いしていいですか?
Dさん(利用者OB) はい。「可能性」としての今年の抱負は、“宇宙に行く”です。宇宙を漂ってみたいです。
(一同、どよめく)
―それで(笑)、次は「必然性」としての今年の抱負は?
Dさん(利用者OB) 「必然性」としての今年の抱負は、“転職”です!
(一同、爆笑)
Dさん(利用者OB) 体力的に限界かと。恐怖の夏が来る前に、なんとかしたいです。
―ありがとうございます。すごいギャップですね(笑)。
一人暮らしは「夢の推し活ライフ」と「お金と体調の不安」
ー時間のこともありますので、次にいきます。
「抽象性―具体性」というラインです。
まず、今年の自分なりのキーワードを決めていただきます。そしてそのキーワードを、最大限の「抽象性」と「具体性」であらわしてみてください。「抽象性」はわかりにくいかもしれませんが、簡単に言えば、具体的な条件をいっさい省いた、そのキーワードから広がる究極の理想の姿かな。「具体性」はそのまま、とことん具体的になったときの姿です。
では、Eさん(利用者)、お願いします。
Eさん(利用者) えーと、今年のキーワードは「一人暮らし」です。最大限の「抽象性」の「一人暮らし」は、“夢の推し活ライフ”。
もう部屋中に推し活グッズを配置したいと思います。
(一同、(笑))
Aさん(利用者) いや~、いいですね~。
―「具体性」はいかがですか?
Eさん(利用者) 「具体性」の「一人暮らし」は、“お金、体調のことをいつも悩んでいる”。
(一同、爆笑)
―落差がすごいね~。
Eさん(利用者) 自分で書いていて、びっくりするほどですね。
―みなさんも、一通り書けましたかね。
それで、ここから内省を深める時間となります。
「可能性―必然性」、「抽象性―具体性」という枠組みで、最大限の想像力を発揮して今年の抱負を書いていただきましたが、いかがでしたか。感想をいただけませんか。
Bさん(利用者) うーん。書いているときはけっこう楽しいかな。特に「可能性」とか「抽象性」あたりは。
でも書き終えて、一息ついてから見ると、なんともいえない気分になりますね。たぶん、むり無理だろうな…、とか。
Cさん(スタッフ) 私は、「必然性」と「具体性」はいつものことなので、書きやすかったかな。ただ気持ちは、どんどんと晴れなくなる(笑)。
私たちにある自由
―キルケゴールは、たぶん人間の観念というのは、この究極的にこの4つなんだとかんがえていたと思う。
僕たちの思考というのは、どんなに拡げてみたところで、究極のところこの4つの観念を極点とする、関係の線によって縛られているんだと。それでこの4つ各項目を、その究極のところまで推し進めて思考を拡げてみても、先ほど誰かが言っていたように、決して満足とは程遠いような感触しかない。
となると、僕たちにとって、かんがえる、とはいったいどんなことなんだろうか?
Aさん(利用者) バランスをとって…、ということもあるけど、でもどこまでいっても最後はやり切れない気分になるのなら、かんがえることは徒労になるということなのかな…。
―キルケゴールは、それを「絶望」という言い方で表現したかったのかもしれない。
Eさん(利用者) 新年早々、なんか暗い感じになってしまった…。
―ただね、今日の話はここからなんです。
この『死に至る病』は、よく心理学の本として読まれることがあるけど、そうじゃないんです。
純然とした、まごうことなき信仰についての本です。
では信仰とは何かということについて、とことん問い詰めていくと、究極的に信仰とは、信仰を選ぶという自由、哲学的に言えば、つまり人間的自由とは何かという問いにいきつく。僕の解釈だと、キルケゴールはこの本で、人間的自由の究極的な根拠を問おうとしたんだと思う。
こんなふうにかんがえてほしい。
いまみなさんは、「可能性」、「必然性」、「抽象性」、「具体性」という、四つの項目で構成される、いわば観念の枠組みの限界まで思考を拡げようとした。そしてできる限り拡げてはみたものの、そこで見出した思考は、自分を納得させるような内容ではなかった。そこで、自分たちの思考の限界線を知ることになり、そこでキルケゴール的に言えば、「絶望」を知ることになる。
しかし、ここで改めて振り返ってみよう。どうして僕たちは、4つの観念で枠組みされる思考の限界線を経験し、絶望することができたのだろうかと。
そもそも、もしもその観念の枠組みの世界しか僕たちが知らないのなら、その観念の枠組みから僕たちの思考が逃れられないとしても、それをまず不快と思うことはない。
それはそうだろうという、結論に落ち着くはずだ。
希望の在りか
ーところが、いまみなさんはなんとも納得がいかないような、不可解な感触を得た。
なぜだろうか。
それは、普段意識をすることはないが、僕たちはその枠組みの外側の世界を知っているからではないだろうか?
その枠組みの外側を知っているからこそ、その枠組みに縛られることに不快な感触をうけるんじゃないだろか?
その不快な感触を「絶望」と呼ぶならば、その枠組みに絶望できるということは、その外側に広がる世界を感知しているからこそなのではないか、ということです。
Dさん(利用者) 外側の世界って、なんですか?
ーそれはわからない。
それこそ、一人ひとりが自分に問いただしてみるといい。
ここで大切なことは、絶望を感受できるということ、それこそまさにいま自分が外側の世界に触れているからこそ起こる経験であり、そしてその外側の世界とどう向き合うかというところに、人間的自由の根拠があるんじゃないかということなんだ。
Eさん(利用者OB) 自分と向き合う自由かぁ…。
ーキルケゴールは、そもそもどうして信仰という経験が可能になるのかといえば、そこに人間的自由があるからこそだ、と思っていたんじゃないか。
「絶望」の反対語は、「希望」ですよね。
ここまで言えば、もうおわかりかと思うけど、僕たちが何かに希望を感じるときって、そこのなんらかの自由を感じたときです。
これからの生活に希望を感じるときというのは、いまよりも自分が自由に生きられるかもしれないと感じることができているから。
そうかんがえていけば、絶望とは希望を知る、その大きな契機、きっかけだと言える。
まさに、絶望とは希望の別名だとさえ、いえるのではないだろうか?
ですから、いまみなさんがお書きになった今年の抱負を、もう一度よく読み直してください。
そこにもしかしたら、希望へとつながる、魔法の入り口がそっと開いているかもしれません。
では、今日のワークショップは、これで終わりにします。
ありがとうございました。
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