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ことばが生まれるとき。①

  • kazenooka
  • 4 日前
  • 読了時間: 5分
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ことばというものは、本当にやっかいなものである。

あるときは自分と他者をつないでくれる便利なツールだけど、あるときは自分と相手を断絶させるためのツールとしても存在する。

相手のためを思って善意で伝えたことばが、なぜか翻って相手を傷つけてしまう。

いったい、どうしてこんなことになってしまうのだろう。


今年は利用者さんと、ことばについてかんがえてきた1年間だった。

この前のワークショップでは、現象学の父祖・フッサールのテキスト(『イデーン』)を活用しながら、この難問に挑んでみた。

僕の感触では、フッサールは認識領域を3層くらいにわけていたのだと思う(やや理屈っぽく言うと、現象学的還元の後の意識の領域)。

一番下に「A.知覚の層」、中間に「B.生活の層(後期の生活世界)」、一番上に「C.物語(ことばによるフィクション)の層」。


具体的に言ってみよう。

「A.知覚の層」で起こる認識は、まだモノに名前がついていない状態。リンゴを見ても、リンゴとは認識しないで、丸くて赤いモノ、くらいの把握となる

「B.生活の層」では、他者からこの丸くて赤いモノを「リンゴ」と教えられ、このモノを見たときは、「リンゴ」と呼ぶことが自然となる(現象学的には「自然的態度」という)。

ここで重要なことは、「A.知覚の層」で生起している認識の内容は、まだ名詞化できていないということだ。

「B.生活の層」において他者から名付けられたモノとして名詞化され、その名詞を用いて、ぼくたちはモノの認識を共有し、そのモノについてのより複雑な対話が可能となる。その対話の中で、そのモノについて僕たちはより認識を深めることができ、さらにモノの属性を豊かに言語化していくことができる。

要するに、僕たちがふだん生活において使用している名詞、つまりさまざまなモノの認識は、先天的・客観的に決められているのではなく、それぞれの具体的な他者との対話を通して得た、「確信」の積み重ねにおいて成立しているということだ。


例えば、僕たちが「リンゴ」と呼んでいるモノを見て、これは「ミカン」と呼称する一団の人々と出会ったとしよう。

だいたい対応策は2つくらいになると思う。

①    対話を深め、世界には僕たちが「リンゴ」と呼んでいるモノを、「ミカン」と呼称する人々の存在を知り、このモノを「リンゴ/ミカン」という認識にする。

②    このモノは「リンゴ」という認識をそのままとし、「ミカン」と呼ぶ人々を排除する。


もちろん、フッサールはどちらの対応が正しいなんて言わない。

ただ彼は、重要なヒントを教えてくれている。

認識はあくまでの他者との対話による確信の積み重ねであり、僕たちの認識の地平は、他者との対話に向けて、いつも開かれているのだと。

「B.生活の層」とは、他者と自分の認識を対話によって、いわば「験し合える」場であり、「験し合う」ことによって、僕たちは自分の認識を更新させ、より多様で柔軟な領域にできる認識のトポスなのである。


いっぽう、僕たちはそういった「験し合う」ことこそできないが、それでも確信として成立している認識がある。

例えば、地球は丸い。

たいがいの人々は宇宙に行ったことがないのだから、地球が丸いことを経験的に知ることはできない。

しかし、それでも地球が丸いことを僕たちが疑うことはない。

これは、どういうことだろう。

これは「C.物語の層」で起こること、つまりある伝聞・推定を幾度も刷り込まれることで、それが「確信」となっていくということなのである。


「C.物語の層」では、「B.生活の層」のように経験に基づく「験し合い」ができない。もっぱら言語による刷り込みによって成立している。

言語はいっけん共有ができそうなツールであり、「C.物語の層」こそ、対話によって豊かで多様な層となりそうであるが、じつはここに陥穽がある。

さきほどのリンゴとミカンのような相違が起こっても、「験し合い」という経験的な出来事が可能であれば、それをないがしろにすることができにないので、そこから認識の変容は起こる。

しかし例えば地球は丸い、あるいは四角いという相違が起こったとき、これは「験し合い」という経験ができない。結局のところお互いの信憑性や価値観といった観念的な対話となるため、共有や包含といった認識変容のための契機がとても難しくなる。

そう、この「地球は丸い論争」のところに、政治的イデオロギーを嵌入させれば、なるほどと思うだろう。


そろそろ話をまとめたい。

僕たちが生きている現代社会とは、多数の情報によって「C.物語の層」を刺激し、強化し、場合によっては「C.物語の層」から「B.生活の層」を決定させることも余儀なくさせてしまう。

生活の場で外国の人々と共生してきた日本人が、外国人による犯罪増加というデマゴギー(物語)で「C.物語の層」を構築していくと、そこから、これまでの「B.生活の層」の認識を一変させ、共生の場であった生活の場を、一気に排除の現場へと描き直させる。

そう「C.物語の層」のレベルで構築された言語は、経験的な験し合いが困難であるだけでなく、「B.生活の層」の認識領域を変容させる。いわば「B.生活の層」が「C.物語の層」によって、「占有」されてしまう。

そしてさらに僕たちの認識は硬化し、開かれているはずの認識の地平は閉ざされる。

その後の起こることは、「C.物語の層」から生み出されるテンプレート的な言語の無限反復だけとなる。


この悲劇を食い止める方策はあるのだろうか?

もちろん、ある。

その方策については、次回、改めて書いてみたいと思う。


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