これからの不登校・ひきこもり支援~民主主義とケアの理念~
- kazenooka
- 6月6日
- 読了時間: 11分

民主主義と「多数者の専制」
こんにちは。
今日はこのような場でお話させていただく機会をいただきまして、ありがとうございます。
いきなり本題になりますけど、今日のテーマは「これからの不登校・ひきこもり支援~民主主義とケアの理念~」です。
つい先日、佐野市でも市議会選と市長選がありました。結果についての論評はここでは差し控えますが、いろいろと課題の多い選挙だったなぁと思います。この「課題」というのは、佐野市という固有の課題もあるのでしょうけど、それよりももっと広い意味での、民主主義そのものに内包している課題が、時代的な色合いの施しながら、むき出しになったとでもいいましょうか。その辺のことを、今日は皆さんと一緒にかんがえてみたいと思います。
トクヴィルというフランスの政治家、政治思想家をご存じですか?
『アメリカのデモクラシー』という本がとても有名です。確か全3巻だったかな、かなり分厚い本ですが、この本は1830年代のアメリカ社会、なかんずくアメリカの民主主義を分析した本としては、歴史を越えた圧倒的な存在感を保持しています。
今日はこの本の中の、わりと有名な一節を通して、いま一度民主主義という政治制度の根幹みたいなところをお話しできればなと思います。
それは、「多数者の専制」。
あれ?っと思いませんでしたか。
だって民主主義は多数決なんだから、多数決で決められたことは従うのが当然なんじゃないのと。
そうなんですね。日本ですと「民主主義=多数決」と教え込まれているから、「多数者の専制」なんて言われると、何が言いたいのかわからなくなるんです。
この「多数者の専制」というワードを理解するには、ギリシャなど、やはりヨーロッパの民主主義を理解しようとしないと、わからない構造になっている。
「多数は正義」がしっくりいく日本的民主主義
と言いますのも、ざっくり言ってしまうと、民主主義は選挙によって主権者である国民/市民が代表を決める制度であり、議会制民主主義は議会で多数派を形成していくことによって立法をしていくわけですね。これで言えば、やはり田中角栄さんでありませんが、「数は力」であり、「多数は正義」となるわけです。
しかし、どうやらヨーロッパの民主主義には、その背景にどうも何かがあるようなんです。
簡単に言えば、その国家なり社会なりを成り立たせている原理、「正統性(レジテマシー)」というのがそれで、例えば多数決で決められたことでも、正統性という視点から考察した場合、それはやはりもんだいだとなれば、それに対して公然と批判できるし、批判をする権利は守られなければならない、ということになる。
つまり民主主義という世俗的な制度は、つねに正統性という超越的な観念によって支えられているし、それによって検証されなければならないよ、ということなんです。
日本人の民主主義理解だと、ここがやっかいになってくる。
特に選挙などは法律的に罰せられることがなければ、その結果は尊重されるべきでしょ、と言われたら、それを批判する原理はなかなか見当たらないでしょう?
ただ法律ということで言えば、やはりヨーロッパの法思想では、公職選挙法など、実定法の根源には自然法がある。実定法的にはもんだいはなくても、やはり自然法(自然権)的にもんだいがあれば、それは批判的に変えていくものとなります。
ここでもやはり、日本人にはこの自然法(自然権)というのが、ややこしい。
そんなもの、どこにあるの? そんなの絵空事だよ、ということになるんです。一笑にふされて終わり、なんてことにもなりかねない。
「開き直り民主主義」と正統性(レジテマシー)
正統性といい、自然法といい、日本人にはいまいちピンとこないのだけど、でもそういった超越的な観念がないと、民主主義なら「多数決で決まったんだから従いなさいよ」、法律なら「選挙は勝てば官軍。法的にもんだいがないのだから、文句を言われる筋合いはない」的な、開き直り的な言説が権利的にはできちゃうんです。
いま日本の民主主義は、限りなくこの「開き直り民主主義」に染まってしまったような気がします。
そうなると、政治の世界などは、多数派形成とか選挙対策とか、ようは「要領のよさ」みたなことが求められるようになって、本来の論理や倫理を駆使して公共的正義をつくりあげていくという、政治の本来の使命が跡形もなくなってしまう。
そこで、今日はみなさんとこの日本的な「正統性」を、改めてどこに求めていくのかをかんがえてみたいのです。
ちなみにヨーロッパでは、やはりキリスト教であったり、古典哲学であったり、ということだと思います。
ちなみにトクヴィルが懸念を表した「多数者」とは何かというと、簡単に言えば「世論」です。
この実体のない何かが、国民の気分をつくり、国家・社会の流れをかたちづけ、現実的にそれは、世論に合わせた政治家を出現させる。
政治家もまた、世論を探り、ひたすら世論の流れに乗っかることばかりに熱中する。
当時のアメリカはいわば民主主義の原風景のような光景が広がり、トクヴィルはそこに大きな可能性を見出しながらも、世論で決められていく政治に一抹の不安を抱いていた、ということだと思います。
この世論を検証するような正統性の視点が、アメリカの民主主義には見当たらなかったということでしょう。
世論まみれ民主主義とミルの『自由論』
そして、この正統性なき、世論まみれの民主主義。
これ、まさにいまの日本ですよね。
政治家はとにかく左右を問わず、いづれかの世論に乗ることばかりに躍起になる。世論に乗らないと、自分の存在をアピールする機会がなくなってしまいますからね。
国家、社会的に正しい政策はなにか、本当に自分がしたいと思っている政策は何か、などとかんがえずに、とにかく世論の趨勢を把握し、自分がどの世論に乗じていくのが選挙上有利になるか、それのみに腐心する。そして国民も世論に乗じている政治家を、あたかも自分の代弁者だと錯覚して、支持し、投票する。
その末路が、いまの日本にほかなりません。
ヨーロッパ民主主義の正統性ということで言えば、もうひとりイギリスの政治哲学者J.S.ミルの『自由論』のことにも触れておきます。
ミルはこの本で、少数者の権利ということを強く訴えています。これは人権思想に基づいたというよりも、社会全体の利益のために、という色彩が強い。
つまり、自由で民主的な国家社会になっていけば、当然のように意見の対立が起こり、多数派が形成される。しかし自由な社会がまさに自由である所以は、このときの少数派の意見をどこまで社会的に保障されるかなんだと。多数派一色に染まってしまった国家社会は、多数派が過ちを犯したとき、そこで終わってしまうよと。
言論の自由がどうして大切かと言えば、ミルによれば、国家社会が安定して永続していくためだということになる。
こういう考え方が、ヨーロッパ民主主義の歴史的に蓄積され、構築された正統性としてある。
「多数派が正義」ではなくて、「多数派と少数派が同等の権利として存在していることが正義」。
この違いは大きいと思います。
ケアの理念は民主主義の正統性と直結する。市民性のケアへ
それで、ここから日本の民主主義のおける正統性をどう構築していくかということをお話したいと思います。
そもそも、この講演のお題は「これからの不登校・ひきこもり支援」についてでした。
なので、突然、民主主義や政治の話が始まったので、みなさんなんのことかと思ったと思います(笑)。
ここで今日の副題を、想起をしていただきたいのです。副題は「民主主義とケアの理念」。
僕のかんがえですと、ケアの領域でも、教育や福祉、医療といった公共的要素の強い領域については、やはり共通するケアの理念を共有することが大切なんじゃないかと思うんです。
つまり医師―患者関係、教師―生徒関係、支援者―当事者関係…、など少なくともこの3つの領域で展開される関係性ついては、共通の理念に基づいて演繹的に展開されるべきだと思います。
そしてその共通の理念は、先ほど縷々申し上げた民主主義の正統性に直結していなければならない。
医療や福祉、教育の現場は、相変わらずのパターナリズムや社会防衛主義的であるともみえますが、一方ではカスハラではありませんが、不当な要求を延々と受け続けなければならないということも出現している。現場がこんな状況で、政治だけは民主主義、というのは、どうしても無理筋な話ですし、その場しのぎの投票行動になってしまうのもやむを得ないと思うんです。
ちょっと先を急ぎますが、では民主主義の正統性に直結しているケアの理念の方向性は、どこを目指していくべきかということですね。
簡単に言えば、僕たち一人ひとりが民主主義国家の主権者になることです。
自分で自分の生き方や社会のあり方を自由に論じ、そして決定していく、そういう生き方を当たり前のこととして尊重されるようになる、またはそのような国家社会をつくる、ということです。
このような生き方、社会の中での在り方を最近の公民科教育では「市民性(シチズン・シップ)」と呼んでいるそうですね。
例えば言論はつねに対話を志向し、互いの市民性を高めていくための用いるべきであり、他者の尊厳を貶める言論は、それがお互いの市民性を衰弱させ、民主主義を崩壊させる要因となっていく。
そうかんがえていけば、公共的要素の強い、教育、医療、福祉は、互いに役割関係をよく理解しながら、双方が互いの市民性を高めるようなケア関係をつねに模索していかなければならない。
帰結的に、こういうことになっていくんじゃないかと思います。
日本的民主主義の正統性。個(孤)と言葉
さて、最後ですけど、じゃあお前は日本的正統性をどうやってつくる気なんだ、ということですね。
突然ですけど、仏教に「無量寿経」という経典があります。これは浄土宗や浄土真宗など浄土教系では特に重要視されている経典です。
ここに、こんな一文があるんです。
「人はこの愛欲の世間にひとりで生まれ、ひとりで死に、ひとりで去り、ひとりで来るのだ」
仏教の教えについてはいろんな説明がされていますが、僕が特に注目しているのは、この徹底した「個(孤)」の意識です。
人は家族や友達、さまざまな仲間にどんなに親密に囲まれていたとしても、この「ひとりで生まれ、ひとりで死ぬ」という、このことを逃れることはできないよ、と。
人間という生き物は、徹底してひとりきりを生きるほかない、個(孤)的な存在なのだと。
ここから、どんな正統性の原理が導かれるのだろうか。
先ずは、➀徹底した個(孤)の尊厳。多数決で決められたことであろうと、人は個(孤)であるがゆえに、無限に批判的な精神をもつことができる。そしてその権利はいかなるときも、個(孤)的であるがゆえに侵害されないこと。
そして、②人は個(孤)的存在であるがゆえに、原理的にわかりあうことができないという前提に基づいた、論理的であり倫理的であろうとする公的な対話の必要性。
ケアが民主主義を強くする
ヨーロッパ的な自然権としての人権概念による「個の尊重」というよりも、無量寿経にあるような、人間は徹頭徹尾「個(孤)」であるよりほかはない、といういっしゅの諦念にも似た「個(孤)の尊重」という認識の方が、日本人には親しみがあるんじゃないかと思います。
そして論理的で倫理的であろうとする公的対話。これは特に日本人はコミュニケーションに「共感」とか「同調」を求めやすい傾向があって、それが社会の閉塞感の原因の一つになっているのは知られていることです。だったら共感や同調を求めないコミュニケーション、つまり、お互いにわかりあえないのだから、じゃあせめてどの辺だったら、ある程度はわかりあえそうかさがし合ってみませんか、というくらいのコミュケーションのほうが、割合にいいんじゃないかと思うんです。
そしてそのときの最低限のルールが、ひとつ目は論理的であること。つまり、誰もがその順番で理解をしていけば、帰結的にその結論にたどり着くということが、誰にもわかるようにすること。二つ目は、倫理的であること。つまりそこで話されているテーマや、相手からの問いかけに対して誠実な言葉遣いをするということです。
「個(孤)」の尊厳を侵害しない、そして論理的で倫理的な対話というこのふたつは、まさに民主主義の根幹であり、なおかつヨーロッパ民主主義の正統性のエレメントでもあります。
だからこそ、教育、福祉、医療は、まずはこの二つを理念とし、このふたつの要素をすべての実践に活用していく。
これだけでも、そうとうそれぞれの現場は変わるんじゃないかと思うんです。
不登校・ひきこもり支援も同じ。
もはや、なんとか支援だからとか、学校と福祉施設は別だから、といったことではなく、それぞれがそれぞれの現場で、理念を共有し実践する。
それはお互いの市民性を高め、民主主義の正統性へと通じているため、それがそのまま自分たちの民主主義国家をより強く確かなものにするよう作用している。
本日お越しの先生方のなかで、もしかしたら不登校やひきこもりに関するハウツー的な話を期待されて来られた方もおられるかもしれません。
まずは、お詫び申し上げます。
ただ、巷でよく言われているような不登校やひきこもりの対処法ですけど、あれはご本人と1,2回くらいしかお会いしないようなレベルの実践には活用できるかもしれませんが、この先何年というスパンで関わるような状況であれば、ほとんと使い物にならないと思います。
今日はそんなつまらない話ではなくて、より本質的なお話をさせていただきたいと思い、このような内容とさせていただきました。
では、ご清聴、ありがとうございました。
質疑応答の時間を、戦々恐々として待つことにいたします(笑)。
(学校の教員、看護師、作業療法士など専門職の会合での講演録を一部改訂しています)
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